悪意の善意の

誤訳の積み重ねで偽書に陥(おち)いる。 そんな、嘆かわしい「秀真伝(しゅうしんでん)」も、まだまだ、一掃されずにあります。

http://wosi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-71a8.html
Σ|D<一掃されたいのか?
つまり、なんかもうズレてきているのです。焚書の正当性を言う。
Σ:)<当時も多分『イザナミイザナギ神話』あたりが伝説化していて事実を知る上ではよくわからなく
なっていた。というので科学的アプローチ、という時点で『偽書じゃないの?』と思われたんで

ややこしいこと書いてるから続きなんか読まないほうがいいと思います。

Σ|D<んなこたーないな、と思われたのですが。大体創作性が高すぎて一人で構築するには
出来ないことはない
Σ:)<というよりも、創作の、フィクションのイメージが現代に戻って
こういう人物像でした、と歴史ドラマが作られる。そこの部分で
Σ|D<ありえない、を切り捨てていく。斬新な表現、とは何か
この『ありえない』を切り捨てていく過程が結構面白くて
Σ:)<一本線で、ある事実ってのは『これがこうでした』であるんだけど
ところどころ嘘をまぜる。ていうのが『伝達用表現』、しいては文章の特徴で
Σ|D<芸術とは『伝達用表現』で誇張したところに『本来表現したい感情』を表現できていれば
名作と言われます。それ以外は駄作です。しかし、駄作が数多くないと『名作』が生まれない
Σ:)<人間は一言の言葉すら未来永劫残すことが出来ない。
という、どうでも言いようで現実に関係ないような文章を書いていたなぁ、という。
Σ|D<大体政治家のアプローチも判ってきましたな、こういう微妙な人間の場合は
人間を見る。結局人間なんだなー、と。
Σ:)<作品じゃないんだ、人間なんだ。
現代に生きる『存命人物の作品』の場合は、作品単体で成立できない。
Σ|D<しがらみがー。

でまぁ、文章の特徴

とまぁ、書いているうちに『そのときそのときの感情』が文章として成立する
Σ:)<何を考えているの? という。
割と何も考えてはいない。どっちかというと楽して生きる方法じゃなく
Σ|D<いや、どうも思うのが『ヲシテ研究者の池田満先生は豪快な極右的思想を持って表現中』
別にそれは人それぞれなんでは?
Σ:)<その結果、何が起こっているか。正しい研究の道筋は絶たれている。
胡散臭いオカルト書籍のカテゴリの中にのみその命運があるというか
Σ|D<実質、オカルト系以外での研究は言語学からのアプローチとして
と言うのが面白すぎるのではないのか、おれ自身。この状況が! という、な。
Σ:)<興味を引き出す、という。まさに『魔書は実在した!』とかそのへんの
発言が問題視されているのでね。偽書、ニセの書物。
Σ|D<本物の書物です。というか、異説を唱える、日本書紀古事記
ここが問題の部分でして、『当時の政府が認めた公文書』という
Σ:)<公文書に間違いはありません。本当か?
リアルに考えて公文書に間違いはありますな。なぜなら、「正解」は時代によって変化する
Σ|D<僕が生きてる30年以内にも随分間違いが公文書で発覚した
そこで、文書の性質として何が必要なのか。

実際何も必要でない。

Σ:)<必ず、いらない。構成要素として「文字の羅列」が文章には必要です
つーことは、必然的に必要とされるのは……まず文字。
Σ|D<すげーよ? イザナミ夫妻は。国産みのときにいきなり日本語を喋ってる。
……えーと、その言葉はどっからきたの?
Σ:)<言葉はどこから来たのか、と言うか言葉の発生はいつか。
つーことで、いきなり日本語を喋るならまずそれなりの文化がそこに存在してるはずなのだが
Σ|D<お役所的には存在しないんです! と。どろどろとした混沌がまずあった
意識が芽生えるのはいつですかー。とかそのへんの子供の言葉を覚える過程を
Σ:)<世界の認識と一緒に書くべし。
つーことで、なんだ?
Σ|D<文句っぽいことも書いたけど、だいたい池田満先生の言わんとしている事はわかるんですよ
ヲシテ文献はすばらしい文献だから中途半端な形で翻訳するのはいけません』
ってのは、偽書とは関係ないんですが。
Σ:)<なんか怪しい動きを察知した、のではないかと。
怪しい動き。ソレが日本の正体です。
Σ|D<よくわからない、というのが僕の感想です。と置き換えると
あー、そーか。
※個人の感想です♪
Σ:)<その個人であることの、つまり執筆者のアナタ。つまり僕は
よくわからない。という。大方の人々にとって。